2007年12月15日土曜日

榛名神社

リスペクト自生山那谷寺霊と共に霊峰月山三度目の立ちゴケワインディングロード続・ワインディングロード続続・ワインディングロード

10泊11日
九日目536km
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榛名神社の駐車場へと入り込み参拝の用意をしていると、先ほどのフルスモークセルシオが、そのまた奥に駐まる。そこから降りてきたのは、スキンヘッドにサングラス、そして大きく開かれた胸元からはゴールドのネックレスが覗くという、更に輪を描いて如何にも、という人物。
その人物がゆっくりと此方に歩み寄り、そしてゆっくりと口を開く。
"どこから来たの?僕もゴールドウィングに乗っているんだよ"
その風貌からは予想だにしなかった、その物腰の柔らかい言いよう。その穏やかな話し口調に、隠された凄味のようなモノを感じずにはいられなかった。寧ろ、"われ、どこから来よったん?"等と声を掛けられた方がホッと出来るというとこだ。
とは言え、そこは同じバイク乗り。打ち解けるのにはさほど時間は要らなかった。

清流沿いの苔むした荘厳な参道。そこに仁王門や三重塔等が、神仏習合の名残を留める。点在する真新しい七福神は、まぁ、ご愛嬌といった感じではあるが、中々の雰囲気である。赤城神社のカラッとした山紫水明といった様も良いが、やはりこのジメッとした深山幽谷といった雰囲気がよい。
華やかな色彩、壮麗な彫刻が施された本殿や国祖社。そして何より本殿奥の御姿岩の姿には息を呑む。この奇岩と社殿の美しさは言葉では表しがたい。


榛名神社は、延喜式神名帳において、上野国十二社の群馬郡小社として位置づけられています。
その後、榛名山邨誌と頼印大僧正行状絵詞の両書によれば、快良が承元四年(1210年)初代座主になり、以来、関白道長の子孫が代々受け継いだと記されています。しかし、戦国時代には座主職も置かれず、衰微の一途をたどっていたようです。
近世に入り天海僧正の手により榛名山は復興されたといわれています。慶長十九年(1614年)「上野国天台宗榛名山巌殿寺法度之事」が出され、以降、寛永寺の支配を受けるようになり、寛永寺末の中里見光明寺が学頭、榛名山満行院が別当に任命されました。後には両職とも光明寺が兼務となり、榛名山光明寺などと書かれることもありました。
慶応四年(1868年)神仏分離令が出され、光明寺立ち会いのもとに什物等の受け渡しが行われ、榛名神社として復活することになりました。 明治三年(1870年)、岩鼻県から神仏分離取締に任命された新居守村が赴任して、仏教的なものをすべて破壊するよう指導し、実行させました。このとき、榛名神社から仏教色は一掃されたといわれています。
公式サイトより


帰り道も、たまたま彼らと一緒になった。当然出てくる話は、バイク、ツーリングのことである。彼は奥さんとタンデムで日本一周しているそうで、自然と北海道の話へとなった。バイク乗りに北海道を語らせて仕舞っては、いつ語り尽くすか分からない。夜通し聴きに徹したところで、夜明けを迎える頃になって漸く、根室のエスカロップが美味かったとか、宗谷岬で初日の出を迎えたとか、釧路湿原でキタキツネと出会った、等という話が出るのが関の山である。
しかし、この参道は冬の北海道の夜ほど"なまら"長くはない。地平線の彼方まで消えゆく真っ直ぐな道を聞く辺りで、駐車場へと辿り着く事が出来た。
もちろん、こういった事を語り合うのが嫌なわけではない。キャンプ場で出会ったのであれば、焚き火を前に酒を酌み交わし、一晩中語り合うのも良かろう。しかし、参拝の時はそちらに集中したかった。

いつの日か、ゴールドウィングに乗ったこの夫婦と遥か北の大地で、再会できることを切に願う。その時こそは、大沼公園の夕暮れ時の美しさや、知床の滝壺の温泉の話など、話尽きるまで語り合いたい。

榛名神社
住所:群馬県高崎市榛名山町849 map
電話:027-374-9050
祭神:火産靈神(ほむすびのかみ)埴山姫神(はにやまひめのかみ)
神紋:三つ巴
旧社格:県社
上野国六宮、式内社
【国重文】
本社:(H17.12.27指定)、正面三間、側面二間、一重、隅木入春日造、銅板葺、江戸後期(文化3)、目貫の鷲、左右海老虹梁の2龍ほか彫刻が多い、格天井の花草飛龍の絵は仙台藩の絵師根本常南の筆
幣殿:桁行三間、梁間一間、一重、両下造、銅板葺、正面拝殿、背面本社に接続
拝殿:桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風、両側面軒唐破風付、向拝一間、軒唐破風付、銅板葺、権現造の複合建築
国祖社:正面三間、側面五間、一重、入母屋造、妻入、向拝一間、軒唐破風、銅板葺、江戸中期(享保年間1716~35)、神仏分離以前は本地仏を安置し、本地堂とも呼ばれた
額殿:正面6.5m、側面2.9m、一重、入母屋造、銅板葺、文化11増築、北面国祖社に接続、額殿は本来は神楽の拝見所
双龍門:一間一戸四脚門、入母屋造、前後千鳥破風、四面軒唐破風付、総欅造、銅板葺、江戸末期(安政2)、棟梁群馬郡富岡村清水和泉、彫刻武蔵熊谷宿長谷川源太郎、天井の龍は高崎藩士矢島群芳の筆
神楽殿:桁行8.5m、梁間4.7m、一重、北面唐破風造、南面切妻造、妻入、銅板葺、江戸後期(明和元)、北側が吹き放ちの舞台、南側を楽屋としている、棟梁佐藤直右衛門
神幸殿:正面一間、側面三間、背面三間、一重、入母屋造、妻入、銅板葺、江戸末期(安政6)
随神門(旧仁王門):三間一戸八脚門、入母屋造、前後軒唐破風付、銅板葺、江戸末期(弘化4)、神仏分離までは二力士像があって雲慶の作と伝えられていた
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