2009年4月12日日曜日

日本三躰ノ一@琴鳴山木元寺

生瀬から武田尾までの旧福知山線廃線跡を辿りにMTBで出掛けた。
その出発点にある木ノ元地蔵が気になり訪れる。もちろん滋賀の木之本地蔵尊との関わりが気になったためである。

拡幅工事中のR176から、南に折れる小路を辿るとすぐに木元寺の山門に至る。
そこには"日本三躰ノ一"と刻まれた石碑がひとつ。三体地蔵尊はあちこちで見掛けるが、ここの他の二体は何処に祀られているのだろう、と思いながら石段を上っていった。

"聖徳太子は鎮護国家のため、1木で3体の地蔵尊を刻み3か所に納められましたが、その1体が名塩の木元寺(このもとでら)にある木元地蔵尊であると伝えられています(もとは木の下と書かれていましたが明治時代に木元と改められました)。なお、他の2体は紀伊の木ノ本(きのもと)、近江の木之本(きのもと) 地蔵尊です。のち、室町時代の摂津、播磨、備前美作(みまさか)を支配する守護大名であった赤松則村円心公(のりむらえんしんこう)が勝軍地蔵として伽藍をここに創建しました。その曾孫の赤松播磨守(はりまのかみ)満政は、六代将軍足利義教(よしのり)に近習(きんじゅ)として仕え、その信任厚く歌道にも秀れた文武両道の人でしたが、新たに台頭してきた山名持豊(もちとよ)(後の応仁の乱の山名宗全)に領地をねらわれて、戦いに敗れてこの生瀬の地に逃れ、木元の山中で一族郎党124人と共に、悲憤の自殺をとげたのです。文安(ぶんあん)2(1445)年3月のことです。
境内に残る十三重の塔は満政父子の墓です。また、一石五輪(いっせきごりん)の小塔は一族郎党の墓で、現在は3基のみ残っています。この両塔は室町時代の墓石形式をそなえていると言われています。この後、天正(てんしょう)年間(1573~91)、同寺は火災にあいましたが、その際、火の中から一部を焼いた地蔵尊が運び出されました。それが現在の木元地蔵尊で、焼(やけ)地蔵とも称されています。また、次のような伝説もあります。
昔この地に住んでいた川辺音次(かわべおとじ)という若い百姓夫婦が家に赤ん坊を残して裏山へ薪をとりに行きました。ふとわが家の方を見ると煙が立ちのぼっています。夫婦は山を駆け下り家に飛び込みました。すると日ごろ信心しているこのお地蔵さんが、激しい火の中、衣の袖で赤ん坊にふりかかる炎を懸命に払っておられました。おかげで赤ん坊はやけどひとつせずに助けられましたが、お地蔵様はやけどを負われました。
それが今も地蔵尊の頬と左の衣に残っている傷跡だと言われています。こうしたことから火伏(ひぶせ)地蔵とも呼ばれて信仰されています。"
西宮市教育委員会より

住職さんに因ると、滋賀の木之本地蔵尊さんとは伝承が異なるのですが、聖徳太子が3体の地蔵尊を刻み、ここ、木元寺と紀伊の木ノ本、近江の木之本にそれぞれ祀った、と伝わっているとのこと。
また、木元寺は、創建当時は真言の寺院で、後に天台に替わり、荒廃した寺を再興し、今は西山浄土宗となっている、と。

境内を歩いていると、"木元寺中興開山第一世 顕空教住上人"と刻まれた墓石を見掛ける。
確か、RC造の本堂にはめ込まれた定礎にその名を見たような?と思い確認すると、"昭和50年4月落慶"の下に"発願人"として名を連ねていた。
そうなると、中興はそれ程古くはないのかもしれない。(大正12年のようです)

観音堂(元堂)
元は御本尊地蔵菩薩様をお祀り致していたお堂で
現在は千手観世音菩薩様をお祀り致しております


琴鳴山木元寺(このもとでら)
所在地:兵庫県西宮市名塩木之元21-1 仏閣マップ
電話:0797-61-0902
宗派:西山浄土宗
本尊:地蔵菩薩
中興:顕空教住上人

---- おもいがき ----

滋賀の木之本地蔵尊さんとは伝承が異なる。事実、近江の、では、南天竺龍樹菩薩の御作であり、難波の浦にながれつかれた、となっております。
聖徳太子が刻んだ三体の地蔵尊、という記述は、琴鳴山木元寺以外では見付けられませんでした。

あと気になるのが、紀伊の木ノ本とは何処を指すのか?
たしかに和歌山市には木ノ本という地名があります。

そこに所在する寺院は
長楽寺
和歌山県和歌山市木ノ本988
浄福寺
和歌山県和歌山市木ノ本843
教妙寺
和歌山県和歌山市木ノ本569-3

和歌山県田辺市には
木ノ元神社
旧三川村大字向山字地下
があり、

紀の川市には、北涌字木ノ下という地名も見られます。

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