2011年6月22日水曜日

焼火神社

『焼火山(海抜452m)の中腹にある焼火神社は日本海の船人に海上安全の神と崇められている。 旧暦12月30日の夜(大晦日)、海上から火が三つ浮かび上がり、その火が現在社殿のある巌に入ったのが焼火権現の縁起とされ、現在でもその日には龍灯祭という神事が行われている。以前はその時に隠岐島全体から集って神社の社務所に篭り、神火を拝む風習があった。現在もその名残を留め、旧正月の5日から島前(どうぜん)の各集落が各々日を選んでお参りする「はつまいり」が伝承されている。
例大祭は7月23日・24日の2日間、昔は島前中から集って神輿をかついだが、昭和30年の遷宮を最後に廃止された。
江戸時代には北前船の入港によって、海上安全の神と崇められ日本各地に焼火権現の末社が点在している。安藤広重・葛飾北斎等の版画「諸国百景」では隠岐国の名所として焼火権現が描かれている。
社殿は享保17年(1732)に改築されたものであり、現在隠岐島の社殿では最も古い建築とされている。当時としては画期的な建築方法で、大阪で作成され地元で組み立てられた(今でいえばプレハブ建築のはしりとでもいおうか)。平成4年には国指定の重要文化財に指定された。城を偲ばせるほど広大な石垣の上に建設された社務所では、旧正月の年篭りの時に千人ほどの参詣人が火を待ちながらたむろしたり、また、江戸時代には巡見使が400人以上の家来を率いて参拝した折りの記録も残っているが、現在は客殿(きゃくでん)という場所にその名残をとどめている。
山頂付近は焼火山神域植物群として保存され平成5年には神社から頂上まで遊歩道も整備された。10年以上かけて開通した焼火林道は市部(いちぶ)から始まって大山(おおやま)へ至り、平成5年には波止(はし)から焼火参道までは舗装整備されるまでになり波止からは車で5分、そこから徒歩で15分で神社まで到着可能となった。』

 かつて「燒火山雲上寺」と称された焼火神社は、瓦葺と云った神仏習合の名残と共に修験の寺院らしく岩山に縋り付く様なボク好みの姿を曝していた。それはまさに、タイニー榛名神社と云っても過言では無いほどの風格を保っていた。
 人気のない社務所へと向かう。掃出しに手を掛けるとなんの抵抗もなく開く。縁側には硯箱が置かれ、中には朱印や筆に硯が並んでいた。
 「すみません」返事など期待せずに気配のない部屋の奥へと声を掛けた。
 「はい、なんでしょう?」と、思いがけず声が返ってきた。後ろを振り向くと、先程参道を上る途中ですれ違い言葉を交わした方がこちらへと向かってきていたのだった。
 ここへは週の半分ほど午後から上がるのだと云う。つくづく運の悪いボクが珍しくタイミングの良かったそんな日。

焼火神社(たくひじんじゃ)(隠岐の権現さん)
鎮座地:島根県隠岐郡西ノ島町焼火山
祭神:大日霊貴尊
神紋:火三つ
旧社格:県社
札所:西ノ島町15番
ご利益:海上安全

【国重文】
本殿,通殿,拝殿
(H4.08.10指定)江戸中期 本殿(享保17)通殿(明治35)拝殿(寛文13)
本殿:一間社流造、正面軒唐破風付、正面通殿間庇、片流れ、東側面唐破風造、銅板葺
通殿:桁行二間、梁間一間、一重、唐破風造、銅板葺
拝殿:桁行四間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、向拝一間、軒唐破風付、銅板葺、西面神饌所附属

 焼火神社は、隠岐島前西ノ島の南西に位置し、航海安全の守護神として信仰をあつめている。
 本殿・通殿・拝殿は、山腹の岩盤を利用して建つ構成に特徴がある。本殿は、享保十七年(一七三二)の建築で、大坂の大工が大坂で木造りし、現地で米子の大工が組み立てるという珍しい方法がとられた建物としも注目に値する。
公式サイト 

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