2011年5月19日木曜日

隠岐国分寺

 国分寺の建立
 人皇四十五代聖武天皇の御代(奈良時代天平十三年=西暦七四一)今から凡そ千二百年余の昔、奈良東大寺をはじめ全国六十八ヶ寺の国分寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の建立を命せられ、これにより、律令国家体制が整備されるに従って、仏教が国家統治上極めて重要な役割を果たしてきたのであります。
 隠岐国分寺も、出雲、石見、両国分寺と並び聖武天皇勅願所として建立された島内第一の伽藍で、金堂、三重塔、四天王寺、大門、中門、山王二十一社の鎮守、大乗坊、大楽坊、大蔵坊、岸本坊などが、山麓一帯に、世にいう七堂伽藍が建てめぐらされ、まことに荘厳をきわめたものであります。

 隠岐行在所
 後醍醐天皇行在所跡は、島後の隠岐国分寺と島前の黒木御所の二説があるが、文部省は昭和九年三月十三日(後醍醐帝建武中興六百年)に隠岐国分寺を国の史跡に指定した。行在所として指定の決め手となったものは『増鏡』の記事と「頼源文書」である『増鏡』第十六。久米のさら山の条に
(前略)海づらよりはすこし入たる国分寺といふ寺をよろしきさまにとり払ひておはしまし所に定む(下略)また「頼源文書」とは、元弘二年八月十九日国分寺御所において、従者千種忠顕を上卿として綸旨を賜っている。頼源とは、平田市鰐淵寺の長史で勤王僧として活躍し、後醍醐天皇隠岐御遷幸以来、島に渡って親しく天皇に謁し、隠岐脱出を成功せしめた代表的人物である。また、頼源が浄達上人に宛てた十九通の文書の譲状「頼源僧都送進目録」には「隠岐国国分寺御所においてこれを下さる」と明記してあり、隠岐国分寺が後醍醐天皇の行在所であることを証明する一級資料によるものである。さればとて、黒木御所に関わる伝説もあるため、否定すべき根拠もないとして、昭和三十三年八月一日に島根県の史跡として指定されている。

 隠岐の廃仏毀釈
 明治二年春から夏にかけて全国的に廃仏毀釈がなされたが、その起因は、慶應四年(西暦=一八六八)三月、祭政一致の方針に基いて政府は「神祇官」を再興し、全国の神社及び神官をそれに附属し、神社所属の社僧の復飾を命じ三月二十七日の太政官布告をもって神仏判然令を出し仏像を神体とすることを改め社前の仏像仏具の取り除きを命じた。これが神仏分離のおこりである廃仏毀釈の運動はこれらの新政府の方針に沿って特定の地域の特殊な社会的条件によって発生した。隠岐の廃仏は隠岐騒動に引き続いてこれを渾然一体の社会運動として民衆の運動として極めて極端な形で行われたところに特色がある。
 明治二年四月、王政一新県知事として九州久留米から真木直人が赴任以来万事改華の世となり、徹底的に行われ、隠岐全島凡そ一〇〇余の寺院迫害は、目にあまるものがあり、伽藍、仏像、仏具、寺宝などの棄毀焼失はもとより寺院財産没収などに及んだ。そのため僧侶の生活と困窮は言語に絶し帰俗逃亡の事もあり多くは跡形もなく廃滅するに至った。
 斯くして僧侶は皆還俗するか又は追放にせられ、明治七年頃には隠岐島断然無寺院の訓示があるに及んで法灯永えに再耀の道は絶たれることとなった。

 本堂全焼
 去る二月二十五日午後三時三十分、本堂が突然出火炎上し、貴重な建物・諸仏像・収蔵物・国指定重要無形民俗文化財「蓮華会舞」に供する拝観展示品等の総てを焼失し、一瞬にしてその威容失いました。
 本堂は、明治の廃仏毀釈の難に遭遇し幾多の難関を経て漸く昭和二十五年に、数多の島内外のご篤信者のご懇意によって落慶をみるに至りました。
 以来、宗派を超えた信仰の道場として、また貴重な国指定史跡や文化財を保持し、隠岐島の観光資源としても大きな役割を担って参りました。平成五年には、本堂屋根総葺替「平成大修理」を、これまた数多の島内外のご篤信者のご浄財を得て成満し、益々重厚な伽藍荘厳の威容を誇って参りました。この様に歴史ある本堂を焼失に至らしめました事は、真に断腸の極みであり慙愧に堪えませず、この不祥事を幾重にもお詫び申し上げます。

禅尾山隠岐国分寺
所在地:島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前5 仏閣マップ
宗派:東寺真言宗
本尊:釈迦如来
開基:聖武天皇
創建:天平年間(伝)
電話:08512-2-2934
入山料:400円

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